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​「始まりと終わり」


誰も居ない電車


ホームから見える5時の夕日

ライブ中に唐突に明日の仕事の事とか現実的な事を考えちゃう現象なんて言うんだろう

街中で喪服の団体を見ると何とも言えない気持ちになる

家の近くにあったお婆ちゃんが切り盛りしてた小さな八百屋さんが解体されて更地になってるのを見て寂しくなった。

ついその日常に慣れて当たり前に存在してるだろうと思ってしまいがちだけど当たり前なんて存在しないんだよね。

 


始まりがあれば終わりがある。

 

それが凄く哀しくて始まりを恐れてしまう。出会う前に終わる事を考えて苦しくなる。

 



自分が幸せを求めて色んなものを犠牲にして努力して辿り着いた先で“幸せ”を感じなかったらどうしようとたまに思う事がある。

 

 

意外と幸せを追い求めてる瞬間の方が幸せだったりして。

 



私が自分の意思で他と違う道を選んだ筈なのに皆んなが群れを成して進んでる一方で自分だけ逆方向に進んでるのが凄く心地良い反面凄く心細くもなる

 

誰かが思う程キラキラした世界で生きてないし水面下でがむしゃらな20代を過ごしてるんだよね

 



ん~~~~~~。

肩書きって何なんだろうね。

令和で経歴だったり資格だったりいわゆる肩書きに縛られた考えを見ると古いな~と感じてしまう。

ああ。この期に及んでまだスペックで判断されちゃうんだ。って。

そんな所よりもっともっと大事な部分があるのに。

表面的な部分で自分を分かったように理解されるのが苦手なんだよな。

もっと私の奥のぎゅっと秘めた部分を見てほしいのに。


 

いや。私が見せようとしてないだけなのかも。
だって誰かに興味や関心を持たれるとちょっぴり怖くなるよね。
私は自分の好きなように生きたいのにそこに誰かの視線を感じると自分より他人が勝っちゃうかもしれない。
誰かが自分のテリトリーに入ってこようとするとそれ以上入ってこられないように自ずとバリアを張ってしまう。

私を理解してほしいと願いながらも、全てを理解して欲しくはない。

 

程良く理解して欲しい。
 

面倒くさい人間だな。



私が感覚で物事を捉えて生きてるからか、これを説明して下さいだとか詳細を求められることが苦手で、だからか面接みたいな物はこの世で一番不得意かも知れない。


自分でも自分が分からないのに相手にどう伝えればいいんだろうかって。


でもそれが出来ない分、好きなアートや芸術で自分を伝えることは出来るのかもしれない。
言葉にしなくても作品を見て自分の奥に秘めた部分を伝えられるって凄いよね。

折角なら私は誰もやった事がないような面白いことがしたかった。
それが可能な時代であるし出来た予想未来図が描けていたのも一つ。


 

服も好きだし、面白いことを考えるのも好き、写真を撮るのも好き、映像を撮るのも好き、音楽も好き、美しい自然も好き、旅行も好き、心理学も好き、美味しいものも好き、化粧品も好き、何かを生み出すことも好き
、沢山興味があるのに一つしかやってはいけないなんて無いし全部をぎゅっと詰めたらとんでもなく面白いものが生まれるかもしれないと胸がときめいた。

私がやりたいものがちゃんとした形になった時に、何がどう変わって、自分自身に何が生まれるのか、ドキドキと、楽しみである。

 


 

 

果たして『幸せ』がそこにはあるのだろうか。

 

自分が生きた証になるのだろうか。

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